天正6年(1578年)大須賀康高によって築かれた。 天正2年(1574年)武田勝頼に高天神城を奪われた徳川家康は、高天神城奪還のため、馬伏塚城の大須賀康高に命じて横須賀城を築かせ、康高を城主とした。
天正16年(1588年)康高は嗣子なく没した為、康高の娘を生母とする榊原康政の長男(一説に次男)忠政が大須賀家を継いだ。 天正18年(1590年)徳川家康の関東移封に伴い、忠政は上総国久留里へ転封となった。
代わって渡瀬繁詮が三万石で入封するが、文禄4年(1595年)豊臣秀次事件に連座して改易となると、家臣有馬豊氏が領地を継いだ。
和暦(西暦) | 事象 |
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慶長6年(1601年) | 有馬豊氏は丹波国福知山へ転封。 上総国久留里より大須賀忠政が五万五千石で入封。 |
元和元年(1615年) | 大須賀忠次の時、上野国館林の榊原康勝が嗣子なく没したため、幕命により実家の榊原家を継ぎ、大須賀家は断絶。 |
元和5年(1619年) | 下総国関宿より(能見)松平重勝が二万六千石で入封。 |
元和8年(1622年) | 重忠の時、三万石で出羽国上山へ転封。 元和8年(1622年)井上正就が武蔵国・下野国とあわせて五万二千五百石で入封。 |
正保2年(1645年) | 正利の時、常陸国笠間へ転封。 三河国岡崎より本多利長が四万八千五百石で入封。 |
天和2年(1682年) | (能見)松平重勝は出羽国村山へ一万石で転封。 信濃国小諸より西尾忠成が二万五千石で入封。 |
明治元年(1868年) | 西尾忠篤の時、安房国花房へ三万五千石で転封。 |
横須賀城は遠州灘に面した微丘陵に築かれており、現在は国指定史跡となって「横須賀城跡公園」として整備されている。築城当時は横須賀湊を眼下にしていたが、宝永4年(1707年)の大地震によって海岸が隆起し、海岸線が後退してしまった。
横須賀城は海岸線に面して東西に長い連郭式の縄張りで、本丸を中心に西に二の丸、東に三の丸を配していた。このうち現在公園として良く整備されているのが本丸一帯である。 本丸には天守台があり、西に西の丸、北東下に北の丸、そしてかつての本丸跡と推測される松尾山を取り込んでいる。
横須賀城はなんと言っても本丸一帯に積み上げられた玉石垣と呼ばれる人頭大の丸い川原石を積み上げた石垣が特徴である。他に類を見ないこの石垣で築かれた本丸、西の丸辺りは他の城郭とはひと味違った景色を見ることができる。
横須賀城公園の周辺にも遺構があり、西大手門跡、不開門跡、松尾山の外側には巨大な空堀が残されている。
西にある撰要寺には不明門、東の本源寺には搦手門、油山寺には白書院、掛川市役所大須賀支所には珍しい横須賀町番所が移築されている。
不明門(移築 城門)
搦手門(移築 城門)
横須賀町番所(移築 番所)
白書院(移築 書院)
横須賀城跡公園西側に公園用の無料駐車場がある。
最寄り駅(直線距離)