築城年代は定かではない。永正10年(1513年)頃に今川氏親の重臣福島正成が城将として高天神城に入城したことが初見とされる。
『高天神を制するものは遠州を制す』と称されるほど重要な城であり、武田氏と今川・徳川氏によって攻防が繰り広げられた。
今川氏没落後、高天神城主小笠原長忠は徳川氏に属していた。元亀2年(1571年)武田信玄は二万越える大軍で高天神城を包囲したが、これを落とすことができず撤退した。天正2年(1574年)信玄の跡を相続した武田勝頼は二万余の軍勢を率いて再び高天神城を包囲、力攻めと降伏勧告を繰り返し、小笠原長忠はついに支えきれず降伏開城した。高天神城を手に入れた勝頼は岡部真幸(元信)、横田甚五郎尹松らを城将として守らせた。
天正3年(1575年)武田勝頼は長篠・設楽原合戦で織田・徳川連合軍に大敗を喫してしまう。好機と見た家康は諏訪原城を攻略し、天正6年(1578年)横須賀城を築いて高天神城への備えとする。高天神城を攻略できない家康は小笠山砦など六つの砦を築いて付城としこれを包囲した。籠城する岡部氏らは武田勝頼に援軍を求めたものの、北条氏と対峙していた勝頼は援軍を送ることができず、天正9年(1581年)にはついに兵糧が尽きた。城将岡部真幸は籠城兵を従えて打って出ると大久保忠教によって討ち取られ、ついに高天神城は落城した。このとき横田甚五郎は秘かに城を脱して甲斐へ戻った。家康は高天神城を焼き払って廃城とし、以後は横須賀城を拠点とした。
高天神城は西の山塊から東へ伸びた丘陵の標高132mの高天神山に築かれている。現在は国指定史跡として遊歩道が整備されているが、神社などがあり遺構は後世にかなり手が入っている。
高天神城は大きく東西二つのブロックに分かれており、本丸のある東側が古く、西がその後の拡張によって改修された部分とされる。東側は垂直に近い急峻な地形を利用して土塁などで防御する構造であるが、西側は大堀切や横堀によって防御する構造となっている。
山頂は北西側に本丸、南東に御前曲輪があり低い段差で繋がっている。虎口は北端にあり、土塁を設けて折れを付けている。また西側にも二箇所遊歩道となっている部分があり、この辺りに虎口があったようである。
本丸の南東下にあるのが三の丸で、東屋が建っているが周囲に土塁が巡っている。東側ブロックで唯一明瞭な堀切がこの三の丸の東尾根下にあるが、かなりの急斜面で降りていくルートを探すのに一苦労。三の丸の入口から南下へ降りていくと大手口があり、その上に着到櫓跡という階段状になった腰曲輪がある。
北の搦手口から登り詰めると本丸と井戸曲輪の間に出る。ここから西にある西の丸は天神社の境内となっている所で、この西の丸を中心に東に井戸曲輪、南西尾根に馬場平、北下に二の丸、堂の尾曲輪、井楼曲輪と続く。
井戸曲輪はその名の通り「かな井戸」という石積された井戸が残る。ここから北へ回り込むと二の丸、袖曲輪があり、西下へ降りていく虎口がある。ここから北へ伸びた細い尾根には堀切で遮断された堂の尾曲輪、井楼曲輪があり、いずれも西下にある長大な横堀に面して土塁を設けており、見所の一つである。
西の丸から南西に伸びた尾根には馬場平があり、この先に続く尾根が城将横田甚五郎が城を脱出したルートらしい。また西の丸にある社務所の背後から南東へ伸びた尾根の先には急斜面に築かれた大堀切が二条ありまさに圧巻である。
大手口は南東麓(地図)、搦手口は北麓(地図)にありいずれも駐車場が完備している。どちらかといえば搦手口からのほうが神社の参道として整備されており歩きやすい。
最寄り駅(直線距離)