永禄12年(1569年)武田信玄が砦を築いたのが始まりとされるが定かではない。 本郭的な城が築かれたのは天正元年(1573年)武田勝頼によるもので、縄張りは馬場美濃守信房によるものである。
武田勝頼は翌天正2年に高天神城を攻め落とすなど遠江に勢力を伸ばしていくが、天正3年(1576年)に長篠・設楽原合戦で織田・徳川連合軍に大敗を喫してしまう。好機と見た徳川家康は諏訪原城を取り囲んで攻め立て、二ヶ月に及ぶ攻城戦の末、城兵は降伏開城して小山城へ退去した。
諏訪原城を奪った家康は改修して牧野城と改め、今川氏真、松平家忠、松平康親らを在城させ、遠江攻略の拠点とした。
天正10年(1582年)武田氏が滅亡すると諏訪原城の役目も終わり、天正18年(1590年)に徳川家康が関東へ転封となった頃には廃城となったと推測される。
諏訪原城は大代川と菊川との間に南北に伸びた台地の上にあり、台地の東端部が突き出した所に築かれている。江戸時代にはこの付近を東海道が通っており、街道を取り込んだ要害であったようである。
諏訪原城は東へ突きだした台地の東端に主郭を構え、その西側に南北に長い二郭、さらに外側に外郭を構えており、武田氏が好んだ後堅固の備えになっている。
主郭は幅広く低い土塁が取り囲む形で北西に土橋が架かり二郭に通じる。東側面は上下二段になった横堀があり、横堀はそのまま南側面へと続いている。
主郭の西に南北に長い曲輪が二郭で、かつては北が二の丸、南が三の丸と標柱があったが、現在ではともに二郭としている。二郭は西側に大きな二つの丸馬出があり、南側は諏訪神社が祀られている。北の丸馬出はさらに北側に小さな角馬出がついて重馬出し、南側の馬出しもさらに南に馬出しがあり、こちら側の重馬出しになっている。
外郭は現在も茶畑であるが、東西に伸びる空堀が現存し、一角に武田方の武将今福浄閑戦死墓塚がある。
県道234号線沿いに道標が出ている。バス停「諏訪原城跡」の前に駐車場があり、入口にパンフレットも用意されている。(地図)
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