築城年代は定かではないが勝間田(勝田)氏によって築かれたと云われる。 勝間田氏は横地城の横田氏と同族で、鎌倉時代には御家人、室町時代には奉公衆として幕府に仕えていた。
文明8年(1476年)勝間田氏は横田氏とともに見付で今川義忠と争って敗れ、勝間田氏は一族離散となって滅亡した。
勝間田城は勝間田川の南岸に聳える標高131mの山に築かれている。現在は県指定史跡として整備されている。
一部の発掘調査によって曲輪VI、VIIから小規模な掘立柱建物跡、礎石建物跡が検出された。出土遺物は概ね15世紀中から15世紀後半で勝間田氏の時代に沿っている。
勝間田城の縄張は特徴があり、堀切5の南側にある小規模曲輪群と、北側の広い曲輪群に大別できる。
南側の小規模曲輪群は主郭とされる曲輪Iは南背後に高土塁を残した小郭であるが、南に隣接する曲輪IVも若干小規模にはなるが同様の構造である。
主郭から北へ伸びた尾根には曲輪II、IIIと続くが、曲輪IIIは北から東にかけて土塁を配す。曲輪IVは堀切5に面した土塁の中央が開口しており、ここから現在の通路となり曲輪II、IIIの東下を経て主郭部へ通じていたと考えられる。
主郭部の東端には一段小高く曲輪Vがあり、そのさきは五重堀切11で遮断している。一方南尾根側は通路によって破壊されていてはっきりしない部分が多いが、曲輪IVの土塁下に小規模な堀切2があり、そのさきに二重の堀切があったようで、竪堀状の溝が現在でも確認できる。
堀切5の北側には大規模な曲輪VI、VIIがある。
曲輪IVは北西半分に北西半分ほどに土塁があり、発掘調査で検出された掘立柱建物群と礎石建物1基が地表面に展示されているが、いずれも建物の小規模である。開口部は南、西、北中央、北東隅の四ヶ所あるが、南と北東隅が虎口の可能性が高い。いずれも平入の小規模なもので、北側の土塁線はやや屈曲し張出になっている部分もあるが、横矢はかからない。
曲輪VIIは城内で最も広いが、西端の部分が高く、中央はやや低い。西側の高い部分はかつて土塁や堀で区画されていたという。北の開口部は二ヶ所あり、西側は道路が貫通して破壊されているが、この部分は土塁が屈折し、内側はやや段差があることから虎口があった可能性がある。中央は歩道の入口で開口しており、横堀の中央を通って入る構造で、西側が北へ張り出しており横矢は掛かる。
県道233号線沿いに道標が出ている。麓に駐車場とトイレがあり、そこから舗装された道を歩いて登ると城域となる。
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