築城年代は定かではないが室町時代初期に横地氏によって築かれたと云われる。 横地氏は源義家の庶子家永を祖とし、遠江国城飼郡横地の発祥といわれる。
文明8年(1476年)今川義忠は、横地氏・勝間田氏の籠る見付を攻め落とし、帰路に塩買坂で横地氏の残党によって討死する。これによって今川家は跡継ぎ問題で揉めるが、伊勢宗瑞によっておさめられた。 永正年間になると今川氏の遠江侵攻によって横地氏はその勢力を失った。
城は東の城(本丸・金寿丸)、中の城、西の城(二の丸)、詰の丸などの曲輪群で構成されている。西の城の西側と東の城の東側にそれぞれ一騎駆と称される細尾根の道が付いている。
西の城(二の丸)には横地神社が奉られ土塁が残り、中の城には木戸跡が残る。
東の城(本丸・金寿丸)は遺構が良好に残り、北へ伸びる尾根には堀切で分断した曲輪群が良く整備された状態で残っている。