築城年代は定かではない。城の創築は定かではないが真里谷武田氏の支城として築かれたとも云われる。 本格的な築城は里見義尭によるもので、義尭は久留里城を居城として小田原北条氏の攻撃にさらされ、永禄7年(1564年)には北条氏康によって攻められ落城する。しかし、永禄10年(1567年)には三舟山で北条氏を敗り、久留里城を奪還した。
天正6年(1578年)里見義弘が没すると、安房国岡本城の里見義頼と梅王丸との間で家督相続を巡る内乱が勃発し、天正8年(1580年)義頼は久留里城を攻略して、後に梅王丸を捕える。以後里見氏の居城は安房国岡本城へと移り、天正18年(1590年)頃には城代として山本越前守が在城した。
天正18年(1590年)豊臣秀吉による小田原征伐で里見氏は豊臣方に属するものの上総国の所領を没収され、上総国は関東に入部した徳川家康の所領となる。 家康は榊原康政の子大須賀忠政を遠江国横須賀より三万石で入部させた。
・慶長6年(1601年)大須賀忠政は遠江国横須賀へ転封。
・慶長6年(1601年)相模国より土屋忠直が二万石で入封、延宝7年(1679年)頼直の時、改易となり廃城。
・寛保2年(1742年)上野国沼田より黒田直純が三万石で入封、以後明治に至る。
久留里城は別名を「雨城」という。なんでも築城後三日に一度雨が降ったことから、この別名が付いたらしいのだが本日も雨だ。
現在は主郭に模擬天守が建てられているが、その横には発掘された天守台が残されている。二の丸には久留里城址資料館が建ち、ここは入館無料となっている。近世城郭となってからは三の丸が西麓にあったようで、一応平山城となる。
「房総の城郭」に掲載されている縄張図では主郭を中心に四方八方に伸びる尾根に無数の曲輪が刻まれている。実際北北西方向にある駐車場から登ってくる道から尾根を見上げるとコンクリートで塞がれた堀切があり、中世城郭の遺構が多く残されているように感じるが、本日は雨ということでその辺りの散策は、またきたときに行ってみたい。
入場時間 | 9:00-16:30まで |
休館日 | 月曜日(祝・休日の場合には開館し、翌日休館) 年末年始(12/28-1/4) |
料金 | 無料 |