天文元年(1531年)沼田顕泰によって築かれた。 天文20年(1551年)関東管領上杉憲政の越後国亡命を追って、小田原北条氏が侵攻し、顕泰はこれに降った。 しかし、永禄3年(1560年)上杉政虎の関東進出により、北条勢は沼田より退去して顕泰は上杉氏に降った。
永禄12年(1569年)顕泰は末子景義に相続させるため、嫡子朝憲を殺したが、沼田衆の攻撃により景義とともに会津に落ち延びた。
上杉謙信没後に勃発した「御館の乱」で景虎が敗れると沼田に残った藤田信吉は武田氏に通じ、城を真田昌幸に渡し、昌幸は叔父矢沢頼綱を城代とした。
天正10年(1582年)武田氏が滅びると、滝川一益は滝川益氏を城主としたが、本能寺の変により退去し再び真田氏の持城となり、嫡子信幸を矢沢頼綱後見のもと城主とした。 天正17年(1589年)昌幸は、北条氏が上洛して羽柴秀吉に面することの条件として、沼田領を北条氏に割譲する条件をのみ、北条方の猪俣邦憲が城代となった。 しかし、邦憲は真田領として残された名胡桃城を奪取、それをきっかけに秀吉は北条氏を討伐することとなった。 小田原の役の後、沼田領は真田信幸に渡された。
関ヶ原合戦では、父昌幸は西軍、信幸は東軍に属し、合戦後信幸は昌幸の旧領を与えられた。
元和8年(1622)年信幸は信濃国松代に移り、後に二男信政に信濃国松代十万石、信利に沼田三万石とした。
沼田真田氏は天和元年(1681年)改易となり、元禄16年(1703年)本多正永が下総国舟戸より入封、享保15年(1730年)駿河国田中に移封となる。
享保17年(1732年)常陸国下館より黒田直邦が入封、寛保2年(1742年)直純の時、上総国久留里に移封となり、替わって駿河国田中より土岐頼稔が入封、以後明治に至る。
沼田城は比高80m程の台地の北西端に築かれており、現在は沼田公園になっている。
台地の西端に本丸があり、北に捨曲輪、東に二の丸、南に三の丸などがあった。本丸の西隅に西櫓台の石垣が残されており、テニスコートや池などとなった堀跡、二の丸と三の丸留の一部に土塁が残る。
大手門は沼田小学校の南にあり冠木門が建っている。沼田女子高校の南東側の宅地の部部に外堀跡らしき窪地がまだ残されている。
沼田公園に駐車場がある。
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