元和6年(1620年)古田重治によって築かれた。 元和5年(1619年)吉田重治が大坂の役の功によって五万四百石余を領し、伊勢国松坂より浜田へ加増転封となり元和6年(1620年)浜田城を築いて浜田藩となった。
慶安元年(1648年)浜田藩主二代古田重恒が嗣子なく没して古田氏は改易となり、播磨国山崎より(松井)松平康映が入封する。
(松井)松平氏は康映から康宦・康員・康豊・康福と五代続き、宝暦9年(1759年)松平康福のとき下総国古河へ転封となり、代わって下総国古河より本多忠敞が入封した。
本多氏は忠敞から忠盈・忠粛と三代続き、明和6年(1769年)本多忠粛のとき三河国岡崎へ転封となった。代わって三河国岡崎より(松井)松平康福が入封するが、この康福は 宝暦9年(1759年)に下総国古河へ転封となり三河国岡崎を経て再び浜田へ戻ってきている。
第二期(松井)松平氏は康福から康定・康任・康爵と四代続き、天保7年(1836年)松田康爵のとき、陸奥国棚倉へ転封となった。代わって上野国館林より(越智)松平武厚が六万一千石で入封した。
(越智)松平氏は武厚から武揚・武成・武聰と四代続いたが、慶応2年(1866年)第二次長州征伐のさい、浜田口を守備していた長州藩の大村益次郎に敗れ、浜田城を自ら焼き払って出雲国松江に逃れた。その後、武聰は飛領地であった美作国鶴田に陣屋を構えて鶴田藩として明治を迎えている。
浜田城は松原湾と浜田川に囲まれた標高60m程の丘陵に築かれており、現在は県指定史跡に指定され城山公園となって整備されている。
護国神社から本丸に向かうと旧津和野藩庁門で浜田県庁門となっていた門があり、それを潜って登っていく。この辺りは石垣が比較的残されており、城内で最も厳重であった桝形の二ノ門に至る。この奥にあるのが本丸で、北西隅にはかつて三重の天守があった。 護国神社と焔硝蔵のある曲輪との間にある谷間へ降りていく道があり、これを降ると中門跡の石垣、北の駐車場の前に裏門の石垣が残っている。
国道9号線沿いに浜田城の道標があり、山の中腹にある護国神社の所まで車で登ることができる。
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