慶長12年(1607年)堀尾吉晴と孫の忠晴によって築かれた。
慶長5年(1600年)関ヶ原合戦の功により堀尾忠氏が遠江国浜松から出雲二十四万石に加増転封となると富田城を居城とした。慶長9年(1604年)忠氏が急死すると忠氏の嫡男忠晴がまだ幼小であったため忠氏の父吉晴が後見人を務めた。
慶長12年(1607年)堀尾氏は松江城を築城して富田城より居城を移したが、寛永10年(1633年)堀尾忠晴は嫡子なく没ししたため堀尾氏は断絶となった。
寛永11年(1634年)若狭国小浜より京極忠高が二十四万石で入封するが、寛永14年(1637年)忠高も嫡子なく没して京極氏は断絶となる。
寛永15年(1638年)信濃国松本より(越前家)松平直政が十八万六千石で松江に入封、幕府から隠岐領一万八千石を預かった。寛文6年(1666年)直政が没すると嫡男綱隆が家督を相続、このとき弟近栄に三万石を分知して広瀬藩、同じく弟隆政に一万石を分知して母里藩となった。
元禄14年(1701年)三代綱近は新墾田一万石を弟近憲に分知して松江新田藩を立藩した。 しかし、綱代の男子がすべて早世したため、近憲は兄綱代の養子となって四代吉透となったため、新田一万石も本藩に還付された。以後、松平越前家が代々続いて明治に至る。
松江城は山陰で唯一天守が現存する近世平山城である。二の丸には南櫓、中櫓、太鼓櫓の三基の櫓が復元され、内堀越しに見る眺めはすばらしい。
本丸の東よりに天守があり、南に二の丸、東下に二の丸下ノ段、南の県庁のある所が三の丸、北の護国神社のある所が北の丸である。
天守(現存 天守)
南櫓(復元 櫓)
中櫓(復元 櫓)
太鼓櫓(復元 櫓)
駐車場は大手門脇に有料駐車場、南の島根県庁にも休日は駐車可能なようである。本丸までは無料で入城可能で、天守のみ有料。
本丸へは時期によって開館時間が異なり、4月〜9月が7:00〜19:30、10月〜3月が8:30〜17:00、天守は4月〜9月が8:30〜18:00、10月〜3月が8:30〜16:30となっている(2015年3月時点)。
最寄り駅(直線距離)