平安時代に平忠度が築いたとの伝承があるが定かではない。
永禄6年(1563年)毛利元就による出雲侵攻で尼子氏の居城月山富田城の重要な支城である白鹿城を攻略するための向城として吉川元春が築いて陣を置いた。 白鹿城攻略後は真山城をこの地方の拠点とし、多賀元信を城主とした。
永禄12年(1569年)毛利氏が兵力の大半を率いて豊後大友氏との戦いに向かうと、再興をはかった尼子勝久は隠岐を経由して忠山城に入り、勝久は各地に激を飛ばして将兵を集め、真山城を落としここを本拠として出雲回復を狙う。 尼子方は月山富田城を囲んだが、天野隆重の謀略により落とすことができず、毛利方が九州から帰国すると次第におされ、元亀2年(1571年)真山城も吉川元春の攻撃により落城し、尼子勝久は織田信長を頼って落ちた。
真山城は白鹿城の北の白鹿谷を囲むように山が連なるうちの東側、標高256.2mの真山に築かれている。
南北に細長く伸びた山に曲輪を連ねる縄張であるが、明確に尾根を遮断する堀切がないのも特徴で、途中二箇所ほど属に「一騎駆け」と呼ぶ両側を削り土橋状に細くした尾根がある。
主郭は「尼子勝久公之碑」と刻まれた石碑の建つ所で、その背後にも曲輪群は続き急激に降る手前の曲輪は、北側を削り残して土塁のようになっている。南へ伸びた尾根は「三の床」と呼ばれる曲輪に至り、ここには野面積の石垣が残っている。 「三の床」からは南西の白鹿谷への登山道もあり、これを降りた所にも曲輪群がある。
白鹿城とともに常福寺付近(地図)の交差点に登山道などの案内がある。登山口はそこから北上し突き当たりの交差点を右にいった所で、周囲に駐車可能なスペースがある。(地図)
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