築城年代は定かではないが永禄年間(1558年〜1569年)に松田氏によって築かれたと云われる。
尼子十旗の一つで、毛利氏侵攻のときの城主松田誠保の父満久は尼子晴久の姉婿である。満久は備前国松田一族の松田満重の次男である。
永禄6年(1563年)に毛利元就による侵攻では吉川元春が真山城を向城として築き攻めたて、まず小白鹿が陥落、月山富田城の尼子義久からの援軍も撃退され落城した。 このとき、毛利元就は大森銀山の坑夫を使い地下道を掘らせて井戸を抜いたという。 誠保は落城後隠岐へ逃れ、元亀元年(1570年)布部山合戦に参加している。
白鹿城は標高150mの白鹿山に築かれている。南に開かれた長谷の北に主郭のある白鹿山山頂付近を主郭部とし、東西両側から南へ伸びた丘陵にも曲輪群を配し、西の標高109m付近は特に小白鹿城と呼ばれている。
最高所は北西から南東へ長く伸びた曲輪で「一の床」と呼ばれている。おそらくはここが本丸であったと思われるが、現地の案内では北下の御月見御殿と呼ばれている曲輪に本丸の看板が建っている。
真山城とともに常福寺付近(地図)の交差点に登山道などの案内がある。
登山口大きく四つあり、東の白鹿口(地図)、西の西の谷口(地図)、谷の中の長谷口(地図)、南西尾根先(地図)である。
今回は白鹿口から登り、白鹿城主郭部を経て大黒丸、小白鹿城を経て南尾根先に下山するルートで歩いている。
最寄り駅(直線距離)