慶長6年(1601年)京極高次によって築かれた。 近江国大津城六万石の大名であった京極高次は、慶長5年(1600年)関ヶ原合戦で大津城に籠城し、西軍の攻撃を防いで関ヶ原への進軍を足止めした功によって、若狭国で八万五千石、翌7年に近江国高島郡に七千石を加増され、九万二千石の大名となった。
京極高次ははじめ若狭国守護職武田氏の居城であった後瀬山城に入ったが、北川と南川を天然の濠とした小浜城の築城を開始した。しかし、慶長14年(1609年)完成することなく高次は没し、家督は嫡男の忠高が継いだ。忠高は寛永元年(1624年)越前国鶴賀郡内で二万一千五百石の加増を賜り、寛永11年(1634年)には出雲・隠岐など二十六万四千二百石を賜り出雲国松江に転封となった。
京極氏に替わって武蔵国川越より酒井忠勝が若狭一国、越前国敦賀郡内、近江国高島郡内に十一万三千五百石を与えられ小浜城主となった。忠勝はさらに下野国で一万石を加増、大老に就任するなど将軍徳川家光の信任は厚かった。小浜城が完成したのはこの酒井氏の時代で三重天守も酒井氏の時代に築かれた。
寛文8年(1668年)酒井忠直は兄忠朝の子忠国に一万石を分与して安房国勝山藩が成立。天和2年(1682年)酒井忠隆は弟忠稠に一万石を分与して越前国敦賀藩が成立、弟忠艮にも三千石を分与、小浜藩は十万三千五百石となる。以後代々酒井氏が続いて明治に至る。
小浜城は日本海に面した北川と南川のに挟まれた河口に築かれていた。 現在小浜神社の境内となっている所が本丸で、本丸を取り囲むように、北の丸、西の丸、南に二の丸、東に三の丸を配していた。
本丸である小浜神社の周囲には石垣が残り、南西住みには天守台が残る。周囲は堀が巡っていたが、現在は埋め立てられ民家が建ち並んでいる。本丸の周囲にあった曲輪群は見る影もなく、北と南は河川の改修工事によって完全に消滅している。
順造館正門(移築 城門)