築城年代は定かではないが内藤氏によって築かれた。
内藤氏は若狭守護武田氏の譜代家臣で、若狭の守護代を務めた内藤筑前入道昌廉から若狭での活動がはじまる。
筑前守家は天ヶ城を居城とした惣領家で、箱ヶ岳城を居城とした内藤佐渡守家、茶磨山城主内藤兵庫、湯屋谷城主内藤下総守など遠敷郡を中心に勢力を拡げていた。
武田氏が没落すると、内藤氏もまた織田信長に通じ、元亀元年(1570年)越前に向かう織田信長を熊川で迎えた若狭衆のなかに内藤筑前守勝行がおり、朝倉攻めに参陣している。
内藤氏は丹羽長秀に従って各地を転戦するが、秀吉の時代に没落した。
天ヶ城は羽賀寺の北側に聳える標高266.2mの山に築かれており、現在は登山道が整備されている。
天ヶ城は山頂部の曲輪群I、IIと羽賀寺方面に下る尾根の一つにある曲輪群III、IVがあり、その下方には天ヶ城(下城)とされる独立した砦が一つ確認できる。どこまでをどの城の遺構とするのか区別は難しいが、『戦国の若狭 ~人と城~』を参考にしている。
主郭部は三角点のある標高266.1mの山頂から南へ伸びた尾根に築かれた曲輪群Iである。 北端のI1が一番高く、南端I4が一番低いが、高低差は少ない。
北端の曲輪I1、I2は曲輪としては非常に狭く、主郭はI3とするのが妥当だろう。南端のI4との間には土塁があり、I4側にスロープ状に折れ曲がって伸びている。
虎口はI4の西側に開口しており、そこから谷筋に降りて行く道が伸びる。中腹には谷を削り込んで水を貯めるような地形が残されており水之手であったかもしれない。ここから下ると福谷集落に降りることになるが、『戦国の若狭 ~人と城~』によれば西津福谷に館跡と伝承される地があったようなので、この谷筋が大手であった可能性が高い。
曲輪群IIは主郭部Iとは二重堀切1を隔てた北西側に位置する。曲輪II1は広い曲輪で一部に土塁が付き、南西隅からII2に降りることができる。そこからさらに北の曲輪II3に続く道がついている。
曲輪II3は他の曲輪とは異なり緩やかに北へ傾斜している緩斜面の一部に土塁や段が築かれている。
羽賀寺からの登山道がある尾根とは別の尾根に堀切4を挟んで曲輪群III、IVがある。 曲輪群IIIは基本的に尾根中央部を段々に造成しているのに対し、曲輪群IVは西側面を中心に削り込んでいる。
登山道はいくつかあるが、羽賀寺の本堂脇から登るルートと若狭総合運動公園から登るルートが駐車場もありよく整備されている。
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