築城年代は定かではない。弘治年間(1555年~1558年)の城主は内藤兵庫直兼と伝えられ、天ケ城主内藤氏の一族とされる。
茶磨山城は標高134.9mの丸山(旧茶磨山)に築かれている。
茶磨山城は南側山頂部にある曲輪群Iと、北尾根にある曲輪群IIに遺構が確認できるが、その構造は異なっている。
曲輪群Iは非常に整った縄張で、中央の曲輪I1の北に土塁囲みで一段低くなった曲輪I2、南東側に土塁囲みの曲輪I3を備える。
虎口1は曲輪I1の南東隅にあり、土塁が開口して曲輪I3とつながる。I3の虎口は南端の虎口3で、平入形状ではあるが、尾根側面に開口するため右折れで入る構造になっている。ただし虎口に対して横矢を掛けるような構造にはなっておらず、外側から入口を見えにくくする効果が想定できる。
虎口2は西側面に出る通路が一部残されているが、下方はどの方向に繋がるのか定かではない。北端の曲輪I2は東中央に現在の登山道が繋がる開口部4があるが、形状からして本来の虎口ではなさそうである。
北尾根の曲輪群IIは古墳(前方後円墳?)を削平して土塁を残した南北2つの小さな曲輪群があり、そこが主郭部になる。南と北にそれぞれ堀切3、4があるがいずれも幅は広いが浅くなっている。
曲輪群IIから北へ続く尾根Aにはやや加工が見られるものの城郭遺構かどうかは判断が難しい。
北側から丸山への登山道があるようだか入口は未確認である。おそらく福井県立大学前の道から西山腹へ伸びる林道のどこかから登るものと思われる。
南の山神神社から国土地理院の点線を辿ったが、脆い急坂を側面移動しなければならず、おすすめしない。南東側には堀底道が続いているが、入口は不明。
山神神社のすぐ裏手に小浜藩家老三浦帯刀好正の墓がある。
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