詳細不明。畑田氏の居城と伝えられる。
畑田氏の出自は詳らかではないが、文明年間(1469年~1487年)頃には畑田賢清の活動が確認されている。若狭守護武田氏の有力家臣として畑田加賀守、畑田修理亮などがいる。
武田氏が没落すると、畑田氏もまた織田信長に通じ、元亀元年(1570年)越前に向かう織田信長を熊川で迎えた若狭衆のなかに畑田修理亮がおり、朝倉攻めに参陣している。
畑田氏城は天ヶ城から西へ伸びた尾根の一つ、福谷と甲ケ崎の尾根に築かれている。
最高所に曲輪Iがあり、東下に曲輪II、東端は土塁を備えやや間隔を開けて堀切を設けている。
一方、主郭の西側は切岸も完全ではなく、二段ほどの小削平地が続いてそのまま自然尾根として続いており、西の区画ははっきりしない。西は海に突き出すように尾根が伸びているため、東方面のみ防御遺構を配したものだろう。
整備された道はない。福谷会館から少し東へ入った所に天ヶ城への登山口がある。 柵を入ったあたりから山へ取りついて登って行く。
車は福谷会館に駐めさせていただいた。
最寄り駅(直線距離)