築城年代は定かではないが山県氏によって築かれたと云われる。
若狭山県氏の出自は定かではないが、安芸国から若狭守護職に任ぜられた武田氏にしたがって若狭に入部してきた山県下野守信政を祖とする。
織田信長が足利義昭を奉じて上洛すると、山県下野守秀政はその支配下に入り、若狭一国を与えられた丹羽長秀配下の若狭衆として活躍した。
元亀元年(1570年)織田信長に反旗を翻した石山城主武藤友益は霞美ヶ城主武田五郎(信方)、粟屋右京亮らとともに山県孫三郎の籠もるガラガラ城を攻め落とした。
賀羅岳城は太良庄と本保の間に聳える標高297.7mの山に築かれている。
城は南北に伸びた尾根上に築かれており、中央付近にある枡形虎口を境に北が主郭、南が二郭となる。
主郭は北端部に土塁があり、現状沼地のようになっている。これは井戸からの湧水が溜まっているようだが、北東隅の土塁の脇に下に流れるような堰があり、溜池として手を加えられたものかもしれない。
主郭はこの北端の土塁の下部と南の虎口のところに石積があり、人頭大の石を使っている。
南の二郭は内部に小さな段差を設けており、西側に武者走りがある。曲輪の東側は切岸が曖昧であるが中央に竪堀2がある。曲輪の南側にある一文字土塁は高さ1m弱でしっかりした作りであるが、東西両端は開口している。
南尾根は堀切1、北尾根は堀切4で遮断しているが、堀切4と土塁下部の間には犬走りを設けている。北はさらに先の鞍部のところにも堀切6と竪堀状地形が確認できる。
尾根を南北に進む山道はしっかりしているが、麓から登ってくる道はわからない。
山県氏の菩提寺である長英寺のある太良荘側から登る方法と、反対側の本保側から登る方法があるが、今回利用したのは本保側からで、大月神社のところから尾根に取り付いて登った。下のほうは膝下くらいのシダ藪だが、途中からは普通の尾根道である。
最寄り駅(直線距離)