築城年代は定かではない。時代は不詳ながら上杉金吾が拠ったともいう。
応永年間(1394年〜1428年)頃の城主は粟屋右京亮元隆で若狭守護武田氏の被官として応永7年(1527年)の桂川合戦に出陣し三好軍と戦ったが敗れた。
その後、若狭守護武田信豊の弟(兄との説もあり)武田信高(元度)が新保山城主となり信豊を支えた。弘治年間から永禄年間(1558年〜1570年)はじめに若狭守護武田氏は内紛状態となり、信豊を支持した信高が没すると信豊は隠居して家督を義統に譲った。しかし内紛はこれで収まらず信豊の隠居領を巡って対立し信豊は六角氏を頼って近江へ逃れている。
信高の没後城主となったのは信豊の子武田信方で、天文21年(1552年)粟屋右馬允ら武田浪人衆が近江から攻め込んだ時に、大将として出陣して撃退している。 永禄年間から元亀年間に織田信長が若狭へ進出すると、武藤友益・粟屋右京亮などと結束して反信長勢力となり、元亀元年(1570年)織田方の山県孫三郎の籠るガラガラ城を攻め落とした。しかし、天正元年(1573年)越前の朝倉氏が滅亡し若狭武田氏も没落すると足利義昭の備後国鞆へ出奔したという。
新保山城は天文10年(1541年)武田信高が創建したと伝える龍泉寺の北の山塊に築かれている。 新保山城の規模は大きく、主軸は標高287.2mの山頂付近から南北に伸び、南の標高200m付近に至る。山頂から西の大谷集落の方に向かっても曲輪が連なる。また竜泉寺の東側の尾根先にも城郭遺構が残るという。今回は時間がなく山頂の主要部分のみの散策である。
新保山城の大手である新保集落の居館跡付近から山道がある。ここから山へ入ると良く歩かれた堀底状の山道がクネクネと尾根付近まで続いている。この大手を登りきると標高170m付近の鞍部に到達する。ここから山頂までも堀底状の道が続いてる。
尾根伝いに登って行くと途中堀切を越えながら小郭が続いている。山頂に達すると南北に長い削平地がいくつか段が付けられて続くが途中に一条堀切がある。北端の曲輪は北東側に土塁があり、その下に大堀切がある。北東側へ続く尾根には一郭あり、堀切(五ノ堀切)を越えた尾根にもあと二条堀切がある。
県道219号線沿いにある宮川小学校へ向かうと途中に宮川地区の案内板がある。小学校付近から北東側へ行くと竜泉寺がある。寺から山裾沿いに北東側の新保集落へ進んで行くと左側に墓地があるが、その先に左側にある宅地一帯が居館跡である。白い家の脇から山へ通じる道があり、ここから登ることができる。
最寄り駅(直線距離)