天正4年(1576年)毛利氏によって築かれたと云われる。 天正4年(1576年)室町将軍足利義昭は毛利氏を頼って京を落ち、移り住んだのが鞆であり、その居所として築かれたのが鞆城と云われる。
関ヶ原合戦後に毛利氏が防長二カ国に減封となると、安芸国広島に入部した福島正則が支城として改修して天守をあげ、大崎玄蕃を城主とした。その後、廃城となっていたが水野勝成が福山に入部すると、長子水野勝俊の居所が三の丸に置かれた。勝俊が福山藩主を継ぐと鞆奉行所として重臣荻野新左衛門重富が在所した。
鞆城は鞆の湊の近くにある標高20m程の独立丘陵に築かれており、現在は鞆城山公園や鞆の浦歴史民俗資料館の敷地となっている。
東西に伸びた丘陵で山頂から東西に平段がある。石垣は東から北側が残り、南側にもわずかに当時の石垣が残っている。民俗資料館に続く車道のところに案内板があり、隅石垣には様々な印が付けられている。
駐車場は付近の有料駐車場のみ。