築城年代は定かではないが、文明年間(1469年〜1487年)頃に渡辺越中守兼によって築かれたと云われる。 渡辺氏は渡辺綱を祖とする一族で、鎌倉時代末期に備後国山田荘に移り、始め下山田城、中山田城を居城としていたと考えられている。渡辺兼のときに毛利にしたがって功があり、山田三ヶ村を賜り一乗山城を築いたという。
天文3年(1534年)大内・毛利軍が亀寿山城の宮親忠を攻めた時には渡辺兼もこれに従い、天文21年(1552年)の志川滝山城攻めでは渡辺房が毛利軍に加わっている。
天正4年(1576年)足利義昭が毛利氏を頼って鞆に入ると、渡辺元と景父子が義昭の警固を務めた。
関ヶ原合戦で毛利氏が防長二カ国に減封となると、渡辺景は浪人となったが、その子は福山藩主となった水野氏に仕えたという。
一乗山城は熊野ダム(水源地)の南に聳える標高190m程の山に築かれている。現在は主郭まで遊歩道が整備されている。
一乗山城は山頂の主郭背後に櫓台を備え、南背後の尾根を五重堀切で遮断し、周囲に畝状竪堀群を設けた堅固な山城である。主郭の東西両下にある帯曲輪は何れも南端に分厚い土塁があり、主郭背後の側面に横矢を掛けることができる。
主郭の櫓台周辺を含め小振りな石を用いた石積を所々見ることができるが、曲輪iiから北東山腹に降りる通路に大きめの石を用いた大石垣がある。この石垣は二段に分けて積み上げられており、天正年間(1573年〜1592年)頃の遺構であろうか。
常国寺を目指していけば良く、そこから道標が出ている。
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