明応8年(1499年)宮高尾三郎左衛門尉義兼によって築かれたと伝えられるが定かではない。 宮義兼は亀寿山城主宮氏の一族で戸尾ヶ丸城主であるが備後国南部進出のために志川滝山城を築いたと伝えられる。
義兼の後は常陸介兼光(常陸入道光音)、越後介光奇と続いたが、天文21年(1552年)宗家宮氏の再興を計り尼子氏の支援を受けて志川滝山城に軍勢を集めた。対して大内義長は毛利元就を大将に毛利隆元・吉川元春・小早川隆景など安芸の諸豪族を集結して志川滝山城を攻めさせ、7月23日猛攻を加えて志川滝山城は落城した。 このとき毛利の軍勢は死者7名、負傷者163名「毛利家文書293」、吉川の軍勢は負傷者19名「吉川家文書509」を出している。
志川滝山城は四川ダムの北にある標高396mの山に築かれている。尾根続きの西側以外はゴツゴツとした岩肌の要害の地に築かれている。
標高396mの山頂に北東から南西方向に長い削平地があり、西の尾根には堀切を設けている。山頂から南へ伸びた尾根に三条の堀切を設け、その南に北西から南東に長い曲輪がある。この曲輪は北西端に櫓台が残っている。削平地は更に南へ伸びた尾根にも続くようであるが、周囲は切り立った岩で一応道らしきものがあるものの高所恐怖症が発症しそうなので引き返す。井戸跡とされるものが、三条の堀切から東の谷へ降りて行った所に残っているが、井戸というよりは湧き水を溜めていたような雰囲気である。堀切は何れも浅く不明瞭である。
県道21号線から四川ダムを目指し、さらに大谷池を目指す。この大谷池の改修記念碑の裏側に志川滝山城の案内板が落ちていた...。
大谷池から滝集落への道を登り突き当たりの道を南へ行くと民家の先に柵で囲まれた四川ダムの施設がある。道はここでぐるりと方向をかえるが、その少し先に左へ入る道がある。この道を曲って左下を見ながら進むと山道が見えるのでそれに沿って行くと城跡にたどり着く。
最寄り駅(直線距離)