築城年代は定かではないが貞和年間(1345年〜1350年)に岩松頼宥によって築かれたと云われる。岩松頼宥は足利尊氏の家臣で備後守護として下向し正戸山城を築いて居城としたという。
足利尊氏と弟義直が争った観応の擾乱が勃発すると備後守護であった上杉顕能は義直方となり、尊氏はこの上杉氏を押える為に岩松頼宥を備後守護として下向させた。頼宥は正戸山城を居城とすると岩成周辺の諸城を打ち破り、8月には尾道の城に籠る義直方を攻めた。観応の擾乱は尊氏方の勝利となると足利尊氏は義直方であった足利直冬を討伐するため細川頼元を備後守護とした。
天文年間(1532年〜1555年)には亀寿山城主宮氏の支城として宮氏の一族が城主となった。天文21年(1552年)毛利元就が宮氏を攻めた時、正戸山城も落城して城主宮正味父子は討死し、その後毛利氏の武将栗原左衛門尉信教が城主となって城は大改修されたという。
正戸山城は比高30m余りの独立丘陵に築かれているが、かつては三方を沼地で囲まれた要害であったという。
山頂には石鎚神社が祀られめぼしい遺構は残っていないが山頂から東側一帯に削平地がある。手持の縄張図では主郭の東側にわずかに石垣が用いられた虎口があるとされるが、本当に虎口なのかどうか見てもわからない。
県道391号線と県道181号線の交差点の北東にある丘陵が城址で、東側の麓に入口がある。
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