長禄元年(1457年)太田道真・道灌父子によって築かれた。 関東管領扇谷上杉持朝は古河公方足利成氏に対抗するため、太田道潅に命じて川越城を築いた。
大永4年(1524年)小田原の北条氏綱は扇谷上杉朝興の居城である江戸城を攻め落とし、天文6年(1537年)川越城をも奪い扇谷上杉氏を松山城へと追い落とし、川越城には城代として北条綱成を置いた。
北条氏康の代になると、扇谷・山内両上杉氏は古河公方足利晴氏と結び、福島綱成の籠る川越城を大軍で包囲した。 これに対する氏康は少数で撹乱戦術を用いて撃退する。
天正18年(1590年)豊臣秀吉が小田原北条氏を攻めると、前田利家によって攻められ落城した。北条氏滅亡後に関東に入部した徳川家康は一万石で酒井重忠を置いた。
和暦(西暦) | 事象 |
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慶長6(1601年) | 酒井重忠は三万三千石で上野国前橋へ転封する。その後のしばらく幕府の番城となっていた。 |
慶長14(1609年) | 駿河国田中より酒井忠利が二万石で入封、忠利は重忠の弟に当たる。 |
寛永4(1627年) | 忠利が没したため、武蔵国深谷藩主となっていた嫡男忠勝が遺領のうち三万石を合わせて八万石で川越藩となる。このとき弟忠吉に三千石、忠重に二千石、忠久と忠次に一千石を分与している。 |
寛永9(1632年) | 酒井氏は二万石を加増され十万石となる。 |
寛永11(1634年) | 酒井忠勝は十一万三千五百石で若狭国小浜に転封となった。 |
寛永12(1635年) | 堀田正盛が三万五千石で入封する。 |
寛永15(1638年) | 堀田正盛は十万石で信濃国松本に転封となる。 |
寛永16(1639年) | (大河内)松平信綱が武蔵国忍から六万石で入封、 |
正保4(1647年) | 信綱は一万五千石を加増され七万五千石となる。 |
寛文2(1662年) | 信綱の死去にともない嫡子輝綱が家督を相続、このとき弟秀政、信衡に五千石、堅綱に一千石を分与した。 |
寛文12(1672年) | 輝綱の死去にともない嫡子信輝が家督を相続、このとき弟輝貞に分与した。 |
元禄7年(1694年) | 信輝は七万石で下総国古河に転封となり、替わって柳沢吉保が甲斐国府中から七万二千石で入封した。 |
元禄10年(1697年) | 吉保は二万石を加増され九万二千石となる。 |
元禄15年(1702年) | 吉保は二万石を加増され十一万二千石となる。 |
宝永元年(1704年) | 柳沢吉保は十五万石で甲斐国府中へ転封となり、替わって甲斐国谷村から秋元喬知が五万石で入封する。 |
正徳元年(1711年) | 喬知は一万石を加増され六万石となる。 |
明和4(1767年) | 秋元凉朝は六万石で出羽国山形に転封、川越領は上野国前橋藩(越前)松平朝矩の所領に組み込まれたため川越藩は消滅した。 |
明和5(1768年) | 前橋城が利根川の侵食によって廃城となり、藩庁は川越城へ移された。 |
慶応2(1866年) | (越前)松平直克のときに前橋城を築城して戻ることとなり、このとき川越領が切り離され、(松井)松平康英は陸奥国棚倉から八万四百石で入封、以降松井松平氏が続いて明治に至る。 |
本丸御殿が現存する極めて貴重な城である。主な遺構としては本丸御殿、再移築された家老詰所(本丸御殿に接続)、富士見櫓台、中ノ門堀跡、三芳野稲荷神社の土塁などがある。
河越城は御殿のあるところが本丸で、現在大手門のあたりを復元している。北の博物館のあたりが二の丸、その西が三の丸、本丸西に八幡曲輪、さらに西に中の丸、大手曲輪と続いていた。
西大手門、南大手門は丸馬出であった。
本丸御殿(現存 御殿)
家老詰所(移築 その他)
本丸御殿、川越市立博物館見学者用の無料駐車場がある。
最寄り駅(直線距離)