天文3年(1534年)頃、長野賢忠によって築かれた。 天文3年(1534年)石倉城が利根川の氾濫によって崩れ去り残った三の丸を中心に築城したのが厩橋城の始まりと云われる。
永禄3年(1560年)上杉政虎(後の謙信)が越後から進出し厩橋城を関東進出の足掛かりとして関東管領の権限で兵を動員し北条氏の小田原城を攻めたが落城せず帰国した。
永禄5年上杉輝虎(政虎改め)は北条高広を城主として置いたが、永禄9年箕輪城が武田信玄によって攻略されると高広は小田原北条氏に内通する。武田信玄が駿河今川氏を攻めると上杉氏と北条氏は同盟を結び高広は許されて上杉氏に復帰した。
天正10年(1582年)織田信長によって武田氏が滅亡すると関東管領に任ぜられた滝川一益が入城するが、本能寺の変で信長が倒れると伊勢に戻った。
小田原の役の後は三万石で平岩親吉、続いて慶長6年酒井重忠が十五万石で入城、寛延2年(1749年)酒井忠恭が播磨国姫路に転封となり替わって松平朝矩が入封する。明和5年(1768年)利根川の浸食によって前橋城は廃城となり川越城に移った。
文久3年(1863年)再び前橋城が築城され松平直克が入封して明治に至る。
前橋城は現在の群馬県庁一帯に築かれていた。本丸は群馬県庁の辺りで、現在でも高土塁が残されている。西を流れる利根川を背にした平城で、本丸の取り巻くように二の丸、その外側に三の丸と続いていた。
群馬県庁の北にある前橋公園に無料の駐車場がある。
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