築城年代は定かではないが鎌倉時代初期に土肥遠平が小早川氏を称して築いた館が始まりと云われる。
応永24年(1417年)大森頼春が上杉禅秀の乱での功によって小田原を与えられ本格的に築城する。 明応4年(1495年)伊豆一国を手中に治めた伊勢宗瑞は鹿狩りと偽り箱根に兵を進め突如小田原城を襲い乗っ取った。
北条氏が小田原城を居城とするのは2代氏綱からで、総構えと呼ばれる外郭を整備したのは天正15年(1587年)頃とされる。関東一円に勢力を伸ばした小田原北条氏は6代氏直のとき、 天正18年(1590年)豊臣秀吉によって総勢21万にも及ぶ大軍に囲まれ篭城するも開城し滅んだ。氏政は切腹、氏直は高野山に配流となりそこで没した。北条氏の名跡は北条氏規の末裔が相続し、河内国狭山藩として明治まで続いている。
天正18年(1590年)徳川家康の関東移封にともない大久保忠世が城主となる。 が忠隣のとき改易され阿部正勝、稲葉正勝が入城する。 貞永9年(1632年)大久保忠朝が復帰し以後明治まで至る。
小田原城は小田原駅の南にある小田原城址公園として整備されている。
現在本丸にはコンクリートで復興された天守があり、常盤木門や銅門、馬出門などが復元されている。
石垣も至る所に築かれているが、大正12年関東大震災によって石垣はほとんど崩落し、現存していた二の丸平櫓も倒壊している。現在の石垣はその後に積み直されたもので往年とは異なっている。
公園外の遺構としては、三の丸小学校の西側に箱根口門の石垣や土塁、お堀端通りを北上して小田原郵便局北側の道路と交差する手前に幸田口門跡があり、脇に土塁が残る。
銅門(復元 櫓門)
天守(復興 天守)
常盤木門(復興 櫓門)
二の丸隅櫓(復興 櫓)