築城年代は定かではない。小田原北条氏が豊臣秀吉の小田原攻めに対応して整備した城のひとつと考えられており、天正17年(1589年)12月19日付の韮山城主北条氏規に宛てた書状に大藤与七が根府川に在城していることが伝えられており、これが初見となる。
根府川城は約4kmにおよぶ土塁を主体とした長塁とされ、根府川背後の尾根上から湯河原町境の弾正河原を仕切る土塁まで広く遺構が分布しているという。
根府川城の遺構がよく確認できるところが字土手山にある遺構で、現在案内板などが設置されている。
尾根に沿って土塁が長く伸びており、その北側に削平地が若干確認できる。尾根伝いには山道(古道?)による堀底道などいくつかの溝も走っており、城郭遺構との区別が難しい。
梅ヶ山堀切と看板がたっているところがあるが、切れているのは土塁であって尾根自体を遮断するような地形は認められない。
根府川城の役目は小田原から韮山に通じる熱海道を押さえることと推測されており、南北に通じる熱海道を東西に走る尾根で封鎖することを狙っているようである。したがって現地の遺構は主に尾根の南側に土塁や空堀を配しており、東西に走る尾根を遮断するような遺構が確認できないのはそのためと思われる。
根府川集落から上がっていくルートと西の林道から降りて行くルートがあるが、林道側から行くルートで訪れている。
林道はゲートがあり一般車両通行禁止の看板が出ているので、ゲートは開いていたが、ゲート脇に駐めて歩いて行く。根府川城は谷の北側の尾根なのでぐるっと回り込むルートで行く。
最寄り駅(直線距離)