相模 荻窪仕寄さがみ おぎくぼしより
△トップに戻る
天正18年(1590年)豊臣秀吉の小田原攻めで豊臣方の武将が小田原城に攻め寄せるために築いた仕寄遺構と推測されている。
荻窪仕寄は関東学院大学のキャンパス建設にともなう発掘調査で発見された城郭遺構で、現在は消滅している。
発見された遺構は南の小田原城総構に対する仕寄遺構と推測されており、空堀が巡る曲輪は北に虎口を開き、西虎口の外に二条の竪堀が北斜面に伸びていたという。北斜面は小田原城側からは裏側になって直接見ることができないため、仕寄に出入するための通路と考えられている。