元和2年(1616年)北条氏信によって築かれた。 狭山藩北条氏は、小田原北条氏康の五男北条氏規の嫡子北条氏盛を初代とする。
小田原北条氏は豊臣秀吉の小田原征伐により、当主の北条氏直は高野山へ登ることとなった。天正19年(1591年)赦免されて関東と近江で一万石の所領が与えられ大名として復活するが同年に没し、その遺領のうち下野国四千石と北条家の名跡を北条氏盛が継いだ。さらに慶長3年(1598年)父氏規が没すると、その家督を継いで遺領七千石が安堵され、計一万一千石となって大名に列した。
二代北条氏信は慶長13年(1608年)わずか八歳で家督を継いだ。元和2年(1616年)この氏信のとき下屋敷に陣屋が構えられ、三代氏宗のとき上屋敷が完成した。
天明2年(1782年)北条氏あきら(日方)のとき火災によって陣屋は焼失している。その後、天明6年以降に再建された。
狭山陣屋は狭山池の東方に築かれていた。狭山池に流れる東除川を境に北に上屋敷、南に下屋敷があった。
陣屋御殿は上屋敷にあり、大手筋である府道198号線沿いの御殿跡の一角に小公園があり、案内板と石碑が設置されている。現在は開発が進み遺構は殆ど残されておらず、上屋敷の西側にあり堀の役目を果たした上池・中池・下池のうち、北端にあった下池が残っている。
公園と小学校との間に長屋門があり、有限会社狭山開発の看板が上がっているが、これが城郭大系に記された藩士笠原邸の所であろうか。
大手門(移築 城門)
御殿跡の小公園は東小学校から府道沿いに北上した所、下池は東幼稚園の北、もう一つの狭山藩陣屋跡の案内板は東小学校南西の道路沿いに設置されていた。
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