寛喜3年(1231年)小谷四郎正有によって築かれたと云われる。 小谷氏は平尾張守頼盛の子の平河内守保盛の子僧都心円が源頼朝の帰依を得て上神郷を賜り、心円の弟が上神左近将監正員と称して東山城を築いたことに始まる。
政員の五代後裔政有が小谷城を築いて小谷氏を称し、東山城と西山城を合わせて「鼎の城」とも呼んだ。
元亀2年(1571年)二十二代小谷甚八郎政種のとき、三好氏と争い三好氏の将一宮長門守信康の家臣木村肥前守に攻められ討死、三城はともに陥落したという。
小谷城は阪和第一和泉北病院の敷地の一角にあり、本丸部分のみを公園として残して整備されている。石碑が建って案内板が設置されているが、遺構はわからない。