慶長6年(1601年)秋元長朝によって築かれた。 慶長5年(1600年)関ヶ原合戦のとき、徳川家康の使者として会津の上杉景勝の元へ赴き降伏を受け入れさせた。この功によって一万石の所領を得た長朝は蒼海城に入り、その後総社城を築いて居城とした。
秋元長朝は水利の悪い領内に引水して、慶長9年(1604年)には天狗岩用水を完成させるなど内政に手腕を発揮した。
寛永10年(1633年)秋元泰朝のとき、一万八千石に加増され甲斐国谷村へ転封となり廃城となった。
総社城は勝山小学校の南東側一帯に築かれていた。
総社城は利根川の浸食や宅地化によって遺構はほぼ失われ、堀の一部と櫓台があったとされる遠見山古墳が残っている程度である。宅地の中にある城川公園に案内板が設置されている。
小学校の西側にある元景寺は、秋元長朝が父秋元元景(景朝)の菩提を弔うために建立した寺院で、境内の奥には秋元元景の墓がある。