延徳2年(1490年)成田親泰によって築かれた。 天文22年(1555年)北条氏康によって攻められたが、これを退けた。
永禄2年(1559年)長尾景虎が関東に進出、景虎は容易に落城しないことを察知し城下を焼き払った。 これに対して成田長泰は末子を人質として景虎に差し出し、その配下に降った。 翌永禄3年(1560年)再び長尾景虎が関東に進出、鶴岡八幡宮にて上杉憲政から関東管領を譲り受け、上杉政虎と名乗った。 この席で成田長泰は、政虎に辱めを受け忍城に引き上げ、上杉氏に叛き北条氏に身を寄せた。
天正18年(1590年)豊臣秀吉による小田原征伐では、石田三成等が押し寄せたが攻めあぐねた。 三成は羽柴秀吉の備中国高松城の水攻めに倣い、堤防を築いて水攻めを決行した。しかし、堤防は崩れ忍城は落城せず、開城したのは小田原城が降った後であった。
徳川家康が関東に入部すると、松平家忠が一万石、その後四男忠吉が十万石で入部した。
・慶長5年(1600年)松平忠吉は尾張国清州に五十二万石で転封
・寛永3年(1626年)深谷より酒井忠勝が五万石で入封、寛永4年(1627年)川越へ転封。
・寛永10年(1633年)相模より松平信綱が三万石で入封。
・寛永16年(1639年)下野国壬生より阿部忠秋が五万石で入封、元禄7年(1694年)正武の時、加増され十万石となるが、文政6年(1823年)陸奥国白河へ転封。
・文政6年(1823年)伊勢国桑名より(奥平)松平忠堯がから十万石で入封、以後4代続き明治に至る。
北谷門(移築 城門)
伝進修館表門(移築 城門)
御三階櫓(復興 櫓)