寛正3年(1462年)壬生胤業によって築かれた壬生古城が始まりとされ、壬生古城は壬生城の北にある壬生氏と鳥居氏の菩提寺常楽寺の西にあったといわれる。
現在の壬生城址公園を本丸とする壬生城は、文明年間(1469年〜1487年)に胤業の子綱重によって築かれたと云われる。
壬生氏は下野国都賀郡壬生の発祥であるが、京都の公家小槻氏の出とも、宇都宮氏の庶流横瀬氏の出ともいわれ諸説ある。
天正18年(1590年)豊臣秀吉による小田原征伐では、壬生義雄は義弟皆川広照らとともに北条氏に味方して小田原城に入城したが、義雄は小田原で病死、嫡子なく壬生氏は断絶となり所領は没収された。
北条氏にかわって徳川氏が関東に入封すると結城秀康が城主となり、江戸時代になると目まぐるしく城主が入れ替わった。
・慶長7年(1602年)信濃国高島より日根野吉明
が一万九百石で入封、寛永11年(1634年)豊後国府内に転封。
・寛永12年(1635年)武蔵国より阿部忠秋が二万五千石で入封、寛永16年(1639年)武蔵国忍へ五万石で転封。
・寛永16年(1639年)下総国矢作より三浦正次が二万五千石で入封、元禄5年(1692年)明敬の時に日向国延岡に転封。
・元禄5年(1692年)(大河内)松平輝貞が三万二千石で入封、元禄8年(1695年)上野国高崎に転封。
・元禄8年(1695年)近江国水口より加藤明英が二万五千石で入封、正徳2年(1712年)近江国水口に転封。
・正徳2年(1712年)近江国水口より鳥居忠英が三万石で入封し以後明治に至る。
現在本丸跡は壬生城址公園として整備されている。 公園には土塁と堀が残されているが、大半の遺構は壬生中学校の建設や市街地となり破壊された。
南側の二の丸虎口には、民家に移築されて残っている城門を模して高麗門が建てられている。
城門(移築 城門)
城門(移築 城門)