慶長2年(1597年)福原直高によって築かれた。 直高は石田三成の妹婿であった関係で臼杵藩六万石から府内藩十二万石に加増転封となり大友館に入った。 直高は荷落の地に新城を築き縁起を担いで荷揚と改名した。これが府内城である。
秀吉がこの世を去ると直高は家康から府内領六万石を召し上げられ、臼杵領六万石に減封となり、代わって早川長敏が二万石で府内に復帰した。 しかし、慶長5年(1600年)長敏は関ヶ原合戦で西軍に属した為に改易となった。
慶長6年(1601年)竹中重利が高田城より三万五千石で入封した。この竹中氏の時代に四重の天守などが完成した。寛永11年(1634年)竹中重義とき長崎奉行を罷免されて切腹を命じられ、嫡男源三郎とともに自刃しわずか二代で幕を降ろした。
代わって日根野吉明が下野国壬生より二万石で入封するが、明暦2年(1656年)嫡子なく没して断絶した。明暦4年(1658年)(大給)松平吉昭が豊後国高松より二万二千二百石で入封し、以後代々松平氏が続いて明治に至る。
府内城は本丸を中心に西に西丸、東に東丸(合わせて二の丸)、西丸の北に廊下橋の架かる山里曲輪と北丸があり、西から南側を取り巻くように三ノ丸が築かれていた。東側は東丸と本丸・北丸を覆うように帯曲輪を配していた。本丸内部は東西に渡櫓、東側はさらに土塀で南北に区画されており、それらが交わる所に天守があった。
現在水堀が巡り府内城の内部になっている部分には本来は内堀があり、西丸・本丸・東丸があった。
現存するのは西丸の宗櫓(平櫓)と本丸の人質櫓(二階二層)の二基の櫓のみで、西丸西南隅櫓、着到櫓(東丸)、東丸東北隅櫓、東丸東南隅櫓、二の丸多門櫓、西丸と山里丸を結ぶ廊下橋などが復元・復興として再建されている。
宗門櫓(現存 櫓)
人質櫓(現存 櫓)
廊下橋(復元 橋)
西丸西南隅櫓(復興 櫓)
着到櫓(復興 櫓)
東丸東北隅櫓(復興 櫓)
多門櫓門(復興 櫓門)
東丸東南隅櫓(模擬 櫓)
大分市役所の東、大分県庁の北に位置する。城内が広々と開いており、現状ではここが無料の駐車場になっている。
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