築城年代は定かではないが室町時代に吉岡長増(宗歓)によって築かれたと云われる。
吉岡氏は大友一族野津氏の分流で、吉岡長増は大友義鑑・宗鱗の二代に仕えた重臣であった。吉岡氏は千歳城を居城としていたが、長増の頃に新たに鶴崎城を築いたという。
天正14年(1586年)島津軍が北上してきたとき、城主の吉岡統増は大友宗鱗の命により丹生島城を守備していたため留守であった。このため鶴崎城は統増の母妙林尼が指揮を執り堅固に守備し、島津軍三千の猛攻を尽く防ぎ攻め落とされなかった。やがて島津軍が和睦を持ちかけ、妙林尼もこれを受け入れ開城した。
天正15年(1587年)豊臣秀吉の軍勢が九州へ侵攻してくると、島津軍は薩摩へ引き上げることとなったが、妙林尼は一計を案じて撤退する島津軍に酒宴を開いてもてなし、寺司浜に置いた伏兵によって伊集院久宣や白浜重政を討ち取り、野村文綱にも矢傷を負わせた。
慶長6年(1601年)肥後国熊本の加藤清正は、天草の替え地として鶴崎を得て、城を改修して「お茶屋」とした。 寛永10年(1633年)肥後国熊本に細川氏が入封してからも引き継がれ、「成美館」といわれる藩校も作られた。
鶴崎城は現在の鶴崎小学校・鶴崎高校一帯に築かれていたという。
江戸時代の御茶屋の見取り図では水堀が巡る方形の曲輪に東西二つの虎口があり、東が正門であった。発掘調査によって石垣や井戸などが検出されているが、現状地表で確認できる遺構はなさそうである。
鶴崎小学校の東門を少し入った所に鶴崎城・御茶屋の石碑と案内板が設置されている。また小学校と鶴崎高校の間の道路沿いに藩校「成美館」の石碑がある。