築城年代は定かではないが大友氏によって築かれたと云われる。 大友氏は相模国大友荘を本貫地とする一族で初代は大友能直である。大友氏が豊後に下向したのは三代大友頼康の頃と云われ、その後豊後に勢力を拡げていく。
第二十代大友義鑑は嫡男義鎮を廃嫡して側室の子塩市丸を寵愛したため、天文19年(1550年)大友館にて家臣に殺された。大友館の二階で就寝中に襲撃されたことから「二階崩れの変」と呼ばれている。
家督を継いだのがキリシタン大名として著名な大友宗麟となる義鎮で、豊後を中心に豊前・筑後・肥後など九州に勢力を拡げた。 天正6年(1578年)島津の侵攻に耐えきれず、豊後の大友氏を頼ってきた日向の伊東義祐の嘆願を受け、大友軍は日向へ侵攻する。日向の高城攻め、そして耳川合戦で島津氏に大敗を喫した大友氏はこの戦いで多くの家臣を失い、その後は勢力を失う。天正14年(1586年)には島津氏に豊後へ攻め込まれて焼き打ちにあい、宗麟は豊臣秀吉に支援を要請することとなる。
天正15年(1587年)豊臣秀吉による九州征伐により島津氏は降伏し、大友義統は豊後一国を安堵された。しかし義統は文禄の役で鳳山城を破棄して敵前逃亡した罪により改易された。
大友氏館は現在の顕徳町3丁目付近に築かれていた。すぐ南方にある上野の丘の上にある大友氏館(上原館)が知られていたが、近年の発掘調査によって顕徳町にも一辺200m四方の広大な敷地に築かれていたことが確認された。これにより大友氏遺跡として大友氏館と南東にあった万寿寺跡を含め国指定史跡となっている。
現在は「南蛮BVNGO交流館」というガイダンス施設があり、館内には茶室が再現され、大友氏などに関する映像を見せていただける。また隣接して大友氏の庭園が復元され見学可能である。
掲載している大友宗麟像とザビエル像は大分駅の北口、大友義鑑の墓は臼杵市野津町大字宮原(地図)にある。
「南蛮BVNGO交流館」に駐車場がある。駐車場、ガイダンス施設、庭園ともに無料で見学できる。
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