築城年代は定かではないが鎌倉時代に賀来五郎惟永によって築かれたと云われる。 『豊後国図田帳』弘安8年(1285年)に「賀来荘二百三十町、本荘二百町 領家一条前左大将室家 地頭職賀来五郎惟永法名頼連、平丸名三十町 領家山法師備後僧都幸秀 地頭同前」とあり、鎌倉時代からこの地を領していたようである。
賀来氏は大神氏一族で、戦国時代には大友氏に属した。大友氏系の支族が「同紋衆」と呼ばれる中、他の在地豪族は「他紋衆」と呼ばれて区別されていた。享禄3年(1530年)には清田越後守が同紋衆を率いて本庄但馬守と中村左衛門を急襲、さらに翌日には千五百騎を率いて賀来館の賀来左衛門大輔を攻撃する。賀来大輔は松ヶ尾城主大津留氏、鳥ヶ鼻城主橋爪鑑種に援軍を求めて挟撃し、清田勢を追い払ったが、このとき賀来大輔が清田勢の殿を務めた加奈田兵部の弓矢を受けて負傷し翌日没した。
賀来氏館は賀来小学校の北方にある天満社の境内一帯に築かれていたという。現在遺構はなく、天満社の境内に「賀来荘地頭賀来氏館趾」と刻まれた石碑が建っているのみである。
賀来小学校西の県道を100m程北上すると消防施設があり、その西側の路地を少し北へ入ると左側に天満社がある。この境内に石碑がある。
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