築城年代は定かではない。建久2年(1191年)大友能直が豊後国守護職に任ぜられ、その先発隊が豊後へ入国しようとした所、在地豪族の阿南惟家が高崎山に陣取ってこれに抵抗したことが知られ、高崎山城の初見とされる。
正平14年・延元4年(1359年)には大友氏時によって本郭的な城が築かれており、南朝方勢力と戦った。これ以降、大友氏の詰城として利用された。
永正15年(1518年)朽網親満が反乱を起こして高崎山城に立て籠もったが、大友義長によって鎮圧された。
天正14年(1586年)大友義統が戸次川の戦いで島津軍に敗れると、一旦高崎山城に入城したが、ここからさらに豊前国龍王城へ退いている。
高崎山城は高崎山自然動物園の猿が有名な高崎山山頂に築かれており、現在は登山道が整備されているが、山頂からは景色は見えず、城域の大半は自然林の中に埋もれている。
高崎山城は山頂の主郭から南東へ伸びた尾根に曲輪を配しており、東西600mほどの規模である。段々と続く曲輪群の南側に通路があり、大手門とされる虎口から曲輪の側面を通り抜けるように通路が設けられているが、所々正面に土壇を置いて木戸を設けた跡が残されている。
主郭は山頂にあり周囲に土塁が巡り、曲輪内には溜め池のような窪地と築山のような土壇がある。東端部には円形の凹みを持つ井戸のような石垣があり、烽火台と考えられているが『大分の中世城館』によれば、幕末に外国船を監視し長崎奉行所に伝達するための烽火台ではないかと推測している。
主郭から南東に少し離れた所に東西両側を堀切で遮断し、石積を多用した曲輪があり、ここが二郭である。内部は二段に分かれ、東側に虎口が付いている。
大手門と呼ばれる虎口は南東の先端近くにある。虎口の内側は正面に曲輪の土塁、東西の通路は櫓台状の土壇や立てた石を置いて木戸を設けた跡などが残っている。
南東先端の斜面には畝状竪堀群があり、現在の登山道はこの竪堀群の中を通っている。
一般的な登山道は海側ではなく南側山腹にあり、標高415mの所に駐車場がある(地図)。駐車場までの道も最近コンクリート舗装されたが道は狭い。最後の林道も清心寺側からではなく、県道51号線から直接入ってくる道のほうが広く安心である。
登山口から山頂までの比高は約200m程で、つづら折れの登山道は傾斜が緩く楽に登ることができる。山頂付近には野生の猿が沢山おり、握り飯を喰いながら休んでいると平気で2m程の所までよってくるので注意が必要である。
最寄り駅(直線距離)