宝治2年(1284年)多功宗朝によって築かれたと云われる。 多功宗朝は宇都宮宗朝の四男で多功城を築き多功氏を称した。
元禄元年(1558年)上杉謙信が下野に侵攻し多功城へ攻め寄せると、宇都宮氏は多功城主多功長朝、児山城主児山兼朝、簗城主簗朝光などが集結して上杉方と戦い、児山兼朝が討死するなど多数の犠牲を出したが上杉軍を撃退した。
天正18年(1590年)豊臣秀吉による小田原征伐では、多功綱継と芳賀高武は宇都宮国綱の名代として小田原へ参陣した。しかし、慶長2年(1597年)宇都宮国綱が改易となりともに没落した。
多功城の中心部は石橋ゴルフガーデンの辺りであったと云われる。 現在ゴルフガーデンの入口付近に石碑が建てられている。
多功氏の家臣であった石崎家に伝わる多功城絵図によれば、南北に長い方形の本丸、それを取り囲むように御花屋敷、西に隣接して御蔵屋敷などが描かれている。
現在残る遺構はゴルフガーデンの北側、水田に隣接した部分にあり、東西に伸びる二重の空堀と土塁が残っている。西側にも台地があり、御蔵屋敷付近の遺構も残っているかもしれないが、薮化しており確認していない。
石碑は星宮神社付近から石橋ゴルフガーデンへ続く道沿いにある。遺構は北側の水田から取り付いた。
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