築城年代は定かではないが鎌倉時代に西方景泰によって築かれたと云われる。 西方景泰は宇都宮景綱の三男武茂泰宗の二男で、西方城を築いて西方氏を称したという。
代々西方氏の居城であったが、永正12年(1515年)宇都宮忠綱が皆川宗成との戦いで敗れ、西方城も皆川氏の手に落ちた。天正13年(1585年)宇都宮国綱のとき、皆川広照を敗って西方城を取り戻した。
天正18年(1590年)豊臣秀吉による小田原攻ののち、西方氏は所領を赤羽に移され、このあたりは結城氏の領地に組み込まれたが、西方城が使用されたのかどうかは不明である。
西方城は標高221.3mの城山山頂に築かれており、現在は登山道が整備されている。
西方城は山頂から南北に伸びた尾根と東へ伸びた尾根に曲輪を配している。 虎口の形状が非常に多彩で整備状況も良く、見所を図説する案内板はユニークで初心者にとってもわかりやすく説明がなされている。
主郭I1は高土塁囲みで南北両端に虎口が開くが、北の虎口1はもともとの虎口かどうか不明である。南の虎口2はI3と木橋で繋がっていたと思われる。
南の虎口9のあたりは多方面に分岐するところになっており、厳重に固められている。
北の曲輪群IIは曲輪II2の東下に虎口8があり、東山腹の曲輪VIIから登ってくる通路が確認できる。大手は東麓の長徳寺から谷筋を登ってくる道と思われ、曲輪VIIを経てこの虎口8に至るルートが一番シンプルであるが、このルートは東尾根に続く技巧的な虎口を介したルートを通らないことから改修前の古い大手筋とも考えられる。
城の北端にあるAは馬出というよりは堡塁と思われるが、南側は堀底と同じ高さになっていてわかりにくい。出入りは曲輪II3北の入隅になっている部分とされる。この外側にある横堀1から竪堀2へ続く堀はそのまま東山腹の曲輪VIIのところまで続いており圧巻である。
東の曲輪群Vに続く虎口11は連続した枡形空間になっており、堀16と17が食い違いに入って狭い通路になっている。
長徳寺の前に駐車場と縄張図入りの案内板が設置されており、ここから遊歩道が付いている。
北の丸、二ノ丸、本丸、南の丸、東の丸と散策し東の丸からそのまま下山できる。
最寄り駅(直線距離)