築城年代は定かではない。治承年間(1177年〜1181年)に足利忠綱による築城、あるいは暦応年間(1338年〜1342年)に佐野氏の家臣平野将監範久による築城など諸説ある。
天正3年(1575年)平野久国が城主のとき、皆川広照の家臣斎藤秀隆によって攻め落とされ、久国は佐野へ逃れた。天正12年(1584年)平野久国は斎藤秀隆が皆川広照とともに北条氏と戦っている隙を突いて粟野城を奪い返した。しかし、天正16年(1588年)再び皆川広照によって奪われ、落合徳入道が城代となった。この戦いは激しく大将の斎藤秀隆や城主の平野久国らが討死したという。
粟野城は思川と粟野川が合流する地点の北西に聳える標高257mの城山に築かれている。現在は市指定史跡として整備されている。
粟野城のある山一帯は城山公園となっている。主郭のある山頂部は木が全部苅り払われ、山肌が全て露出した状態になっている。ただ山を削って遊歩道を付けているので、遺構もやや失われているようだ。
主郭である山頂部には「口粟野防空監視哨」の跡があり、小さな土塁の付いた曲輪と腰曲輪が連なる。東西両尾根には堀切があり東は二重になっている。東の山腹には斎藤秀隆の墓も残されている。
城山公園の駐車場となっている麓近くには土塁などの跡が残る。
城山の南東麓、県道15号線と246号線の口粟野交差点から少し西へ進んだ所に城山公園の入口があり、その奥に駐車場がある。
最寄り駅(直線距離)