天文元年(1532年)壬生綱房によって築かれたと云われる。
天文18年(1549年)宇都宮尚綱は那須氏と五月女坂で戦い、尚綱は討死する。 壬生綱房と綱雄は宇都宮城を占拠するが、弘治3年(1557年)尚綱の嫡子広綱は芳賀高定の支援をうけて宇都宮城に復帰し、綱房は鹿沼城に退去した。
永禄5年(1562年)壬生氏の内乱によって壬生徳雪斎周長は壬生綱雄を殺害して鹿沼城主となったが、天正7年(1579年)綱雄の子義雄は周長を討って、以後壬生城から鹿沼城へ居城を移した。
天正18年(1590年)豊臣秀吉による小田原征伐では、城主壬生義雄は義弟皆川広照らとともに北条氏に味方して小田原城に入城したが、義雄は小田原で病死、嫡子なく壬生氏は断絶となり所領は没収された。
現在は御殿山公園となり、本丸、二の丸跡は野球場となって消滅した。
公園の南西にある駐車場付近に案内板があり、ぐるりと周囲をまわってみたが、北西にある忠魂碑の建つあたりに土塁らしきものが残り、西側には堀が残っているようである。
鹿沼市役所の南側の道路を登った先に公園の駐車場がある。この駐車場へ登る途中に案内板がある。
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