築城年代は定かではない。久我氏の居城とされているが、久我氏については佐野氏一族や京都の久我大納言清道の末裔など諸説あり詳らかではない。
元亀3年(1572年)久我常真(光綱)は北条に攻められた唐沢山城佐野氏の救援に向かったが壬生氏との合戦で討死したという。この常真の菩提を弔うために建立されたのが現在の常真寺と云われる。
久我城は常真寺の背後の丘陵に築かれている。
北から南に派生したなだらかな丘陵の南端部に位置しているが、現在残る縄張りは南東隅に方形の主郭を置き、西から北を取り巻くように外側に二郭、三郭と直線的な曲輪を設けている。東側は地形改変されているようなので、現在残る縄張だけでは判断できないが、膨大な土木量で西を正面とする縄張りを作り出している。技巧的な要素こそ少ないものの、とても一国人領主の城とは思えない規模で見応えがある。
常真寺のすぐ裏手が城跡であるが、山に動物除けの柵を巡らせている。柵は本堂裏手の墓地のところに開閉部分があり、そこから出入りできるようになっている。
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