築城年代は定かではない。寛喜年間(1229年〜1232年)に皆川宗員によって築かれたと云われるが、これは近くにある白山台であったとも考えられている。この先の皆川氏は元享3年(1323年)には断絶している。 永享12年(1440年)には長沼秀宗が皆川城を本拠にしてしたことから、この頃には築かれていたようである。
皆川広照は宇都宮氏に従っていたが、北条氏政・氏直父子が大軍を率いて北上してくるとそれに降った。天正18年(1590年)豊臣秀吉による小田原征伐で、皆川広照は小田原城に籠城したが、徳川家康を介して秀吉に降り助命された。
天正19年(1591年)皆川広照は栃木城を築いて居城としたが、家康の六男松平忠輝の家老となり、忠輝が信濃国川中島へ移るに従い信濃国飯山へ転封となっている。
皆川城は標高147mの城山に築かれている。現在は皆川城址公園として整備されている。
皆川城は別名を「法螺貝城」と呼ばれている通り、城山は山腹に多段に腰曲輪や帯曲輪が配され螺旋になっている。南西側には大きな竪堀が一条麓まで伸びている。
主郭は山頂にあり、西下にやや広い「お花畑」、さらに西に大きな「西ノ丸」がある。 北側の山腹には東西両側から土塁と掘が伸びた空間があり、それが交わる所が虎口になっている。
現在皆川地区公民館(旧中学校)となっている部分が居館であったと伝えられ、西側に大きな土塁が残り、外側に空堀が付いている。
県道75号線を西進して東北道の高架下を潜る。そのさきに皆川郵便局があるが、その手前に二俣に分かれる道があり、城内町側に入る。250m程進むと北に大きな公民館があり、ここが登り口。
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