築城年代は定かではない。天正年間(1573年〜1592年)以前に石川氏によって築城されたと云われる。
この城は羽柴秀吉による備中高松城水攻めによってあまりにも有名であり、また、本能寺の変によって秀吉の中国大返しの起点となった場所でもある。この城は周囲の沼地を天然の要害として利用した平城である。 天正10年(1582年)羽柴秀吉は大軍をもって取り囲み威勢よく攻めかかるが周りを沼地で囲まれているため攻めあぐねる。毛利方の毛利輝元は備中猿掛城に陣取り小早川隆景・吉川元春は備中岩崎に陣取っていた。 秀吉は千春勝則に命じ幅21m高さ7m長さ2.5kmにも及ぶ堤防をわずか12日で築き足守川や長野川を塞き止め水攻めを行った。 退路を絶たれた毛利方は秀吉に領地割譲を条件に講和を求めたが秀吉は城主清水宗治の切腹を求めた。毛利氏は宗治の切腹は聞き入れることはできないとはじめ断るが二度目の交渉後、宗治自身が切腹を聞き入れ講和することとなる。
落城後は宇喜多氏の部将花房正成が入城し、関ヶ原合戦後は花房職之が入城している。
高松城は現在公園として整備されており、本丸とされる部分はやや小高く周囲には蓮池がある。
城門(移築 長屋門)
公園に無料駐車場がある。
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