築城年代は定かではないが南北朝時代初期に庄資政によって築かれたといわれる。 庄氏は武蔵国児玉党の出自で源平合戦の功により地頭職を得て下向し、幸山城を拠点としたが、資政の時に猿掛城を築き拠点を移した。
室町時代には守護代となるなど勢力を拡げ、天文2年(1533年)庄為資は上野伊豆守を攻め滅ぼして松山城主となり、猿掛城には一族の庄実近を置いた。
天文22年(1553年)鶴首城主三村家親が毛利氏の支援を受けて猿掛城に攻め寄せるが勝敗はつかず、家親の子元祐を庄為資の養子とすることで和議が整い、元祐が城主となった。
元亀2年(1571年)三村家親と毛利元清の連合軍が松山城を攻め落とし庄高資を討つと三村氏は松山城を拠点とするようになる。しかし三村家親が宇喜多氏に暗殺され、毛利氏が宇喜多氏と結んだことで、必然的に三村氏と毛利氏は敵対するようになる。
天正2年(1574年)毛利氏が松山城の三村元親を攻め落とすと猿掛城も毛利氏の手に落ち、毛利元就の四男元清が穂井田家を継ぎ五千貫をもって城主となる。天正10年(1582年)羽柴秀吉による高松城の水攻めの際には毛利輝元がここまで出陣して本陣を構えたが、本能寺の変によって羽柴氏と和睦による。その後、元清は矢掛茶臼山城に移り、毛利元就の娘婿である宍戸隆家が入る。
関ヶ原合戦後、毛利氏が防長に転封となると天領となり廃城となる。
猿掛城は小田川南岸に聳える標高234mの猿掛山に築かれている。北の眼下には山陽道が通っている。
猿掛城は山頂の主郭部(i〜vii)と標高180m程の所にある太夫丸(viii)、そして北西山腹にある寺丸(ix)からなる。
主郭(i)は南端にあり南背後を土塁と大堀切(堀1)、側面には畝状竪堀群(堀3)と大きな竪堀(堀2)を設けている。この主郭から北へ曲輪ii、iiiと低い段差で続いている。曲輪iiiの東に大手門跡とされる虎口(虎1)があり、その脇に井戸跡が残る。この辺りに東西に分断するように石が並べられているが、これは後世のもので土地の境界線を示したものである。この石はおそらく城内にあった石垣のものを転用したのであろう。石積はいくつか点在しているが、主郭の東側面にある石積(石1)の部分が比較的残存度が高い。一段下がって曲輪ivから曲輪viへと北へ続き、曲輪viの東にも虎口(虎2)がある。
標高180m付近にある太夫丸(viii)は南端に石積の段があり、北東端に虎口(虎3)がある。さらに北東の側面には畝状竪堀群(堀4)を設けている。
北西山腹標高110m付近にあるのが寺丸(ix)で、庄氏が家臣の香西五郎右衛門一党の功績をたたえて位牌堂を建立したのに由来するという。
登山道は大きく二つあり、何れも北の小田川沿いにある。大手と搦手は同じ所からで矢掛町(地図)にあり看板が出ている。真備町側の登山道入口(地図)にも案内板がある。
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