築城年代は定かではないが延慶年間(1308年〜1311年)前後に庄資房によって築城されたと云われる。 資房は正慶2・元弘3年(1333年)六波羅が攻められた時に死亡し資氏が継いで在城したが、資政の時猿掛城を築き拠点を移した為、その後は同じく備中守護細川氏の被官である石川氏へと城主が替わった。
永禄10年(1567年)の明禅寺合戦においては備前宇喜多軍五千に対して備中三村軍一万余軍で対するが勝機に恵まれず庄元祐は討死、石川久智も戦傷がもとで没する。 元亀2年(1571年)尼子氏が備中に南下備中北部を制圧し勢いを付けて幸山城に攻め寄せた。 このとき城主石川久式は毛利軍に加わって九州へ出陣していたため落城してしまうが、毛利氏の援軍を得て幸山城を奪還した。
天正2年(1582年)毛利氏が宇喜多氏と同盟したことによって、三村氏が毛利氏から離反した(備中兵乱)。城主石川久式は三村元親と義兄弟の関係から三村方となり、幸山城には重臣友野石見守らを入れて守らせ、自身は兵を率いて松山城へ籠城した。しかし、幸山城は毛利方に降伏、松山城も毛利氏によって攻め落とされ三村元親は切腹、久式も逃亡したが討死、あるいは岡谷城で自刃した。
その後幸山城には清水宗治が入ったという。
備中高松城の役ののちは宇喜多領となり、庭瀬城主となった岡氏の家臣が在番したが、関ヶ原合戦ののちに廃城となった。
幸山城は福山城から北へ伸びた標高170mの峰に築かれており、現在は登山道が整備されている。
周囲は切り立った岩山になっており、天然の要害の地にある。曲輪は北端の曲輪I、南端の曲輪II、そして間にある曲輪IIIと3つある。
最高所は南端の曲輪IIであるが、地形や縄張から北端の曲輪Iが主郭と考えられる。主郭Iは丁寧に削平され南端には土塁を設けているが、曲輪内には巨石も残る。
南端の曲輪IIは南背後の尾根に対して土塁を残し、南東角部が一番高くなっている。現在登山道が上り詰めている部分が虎口の可能性があり、南東隅はその部分に対して横矢が掛かる。
曲輪IIIは鞍部を削平したもので、北西隅に虎口のような開口部がある。東の曲輪IIの北下にも伸びているが削平は甘く、谷筋に降りて行く山道がついている。
福山城に続く南背後の尾根や周辺部分は山道や治山による溝状地形が確認できるが、明確な堀切のような地形は確認できない。
北麓の総社市清音ふるさとふれあい広場など各所からハイキング道が整備されており、福山城と一緒に訪れることができる。
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