築城年代は定かではない。
天正年間(1573年〜1592年)頃の城主は佐野忠職で、永禄2年(1559年)毛利氏に攻められ落城したという。
佐野氏は「鉢の木を焚いて北条時頼に暖をとらせた」という話で有名な佐野常世の後裔の一族が備中に下向したのが始まりとされるが、北条氏滅亡時に衰退し、 その後、天文年間(1532年〜1555年)頃に佐野忠綱が先祖の城を再建して居城としたという。
城は西へ突き出した尾根に築かれている。
丘陵の西先端部分は土採りによって大きく削られている。日本城郭体系に掲載されている縄張図では、この先端部分が本丸で堀切を隔てて東に二の丸があるとされる。
西の本丸部分は土採りによって形状が大きく変わって竹薮の中に埋もれているが、東の堀切に近い部分は良好に残っており、北は堀切から伸びる竪堀に対して横堀があり、北側には畝状竪堀群がある。また堀切の南は連続竪堀となっている。
西端の北側から入る道があるが、そこから入ると荒廃した竹藪を通らないと遺構が良好に残る東側に行くことができない。東側の入口は東の鞍部を通る農道から田んぼの淵沿いに入った所にある。
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