築城年代は定かではない。高師直の被官で下野国小山氏の一族といわれる薬師寺公義によって築かれたと云われる。
文安年間(1444年〜1449年)には薬師寺公義の後裔とされる薬師寺弥五郎久用、明禅寺合戦で明禅寺城の守将となった薬師寺弥七郎などがいる。
真壁城は溝口公会堂一帯に築かれていたという。 「日本城郭大系」によれば、溝口公会堂が城の西端に位置し、稲荷神社と八幡神社の小高い境内が城跡の一部という。
現在公会堂の北側に土盛りの上に社が祀られており、これが土塁跡であろう。この土塁はここから北、さらに道なりに東へ伸びていたようであるが、現在はこの社の部分のみである。