築城年代は定かではないが永享年間(1429年〜1441年)頃に河西氏(川西氏とも)によって築かれたと云われる。 永享元年(1429年)の「備中国惣社宮御造営帳」によれば、「方々の桟敷御社の北の面より守護代庄甲斐守、次は同守護代石川深左衛門尉、次は河西、次は土肥、次は土師、次は伊達、次は間倉、次は長門云々」とあり、守護代に次ぐ地位にあったことが知られる。
天正3年(1575年)備中兵乱で毛利勢は三村方の鬼身城主上田実親を攻める為に周囲に陣を構えていた。荒平山城主河西三郎左右衛門之秀は三村元親の親類であったが、経山城主中島大炊助元行も一族であったため、毛利に味方するように勧めていたが、その間に毛利軍の一部が本陣からの命令もなく山麓に火を放ち攻めかけた。河西之秀は攻め寄せる軍勢を追い落とし毛利勢は退却した。小早川隆景は中島元行に命じて居城と領地の安堵を条件に毛利に味方するように促したが、河西氏は数代にわたる三村の親類であることから、これを拒否した。しかし、籠城している城兵の助命を条件に四国へ退くと約束すると、河西之秀は開城して備前国児島を経て、親類の讃岐国由佐左京を頼って落ちていった。
荒平山城は高梁川に面した標高190.9mの城山山頂に築かれており、現在は主郭に東屋が建ち遊歩道も整備されている。
東屋のある曲輪Iが主郭とされるが、櫓台のようでもある。主郭部は北の曲輪I、南の曲輪II、西側面の曲輪IIIと大きく3つの曲輪群で構成され、北尾根に削平の甘い曲輪IVがある。西山腹には石組井戸があり現在でも水がある。
曲輪IIの南端は土塁があり、その下に高い切岸を設け少し間隔を開けて堀切1で遮断している。南側の部分については遊歩道によって大きく削られているため細部は不明であるが、西側面には竪堀2が確認できる。
北尾根にある曲輪IVは主郭Iの切岸下に竪堀3がある。堀切が埋まったような感じでもあるが、東側はヤブが酷く溝が確認できない。北端はやや小高くなって三角点が埋められているが、そこから北へ続く尾根はほぼ自然地形である。
登山道はいくつかあるようだが、北東の尾根先にある式内社の石畳神社から登るルートがわかりやすい。神社の参道入口に駐車場がある。
南側のルートは古墳群の脇まで未舗装林道が来ている。
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