築城年代は定かではないが南北朝時代の至徳2年・元中2年(1385年)には今川泰範が城主であった。
文亀元年(1501年)頃から上田氏が代々在城することとなる。 天正年間には備中・松山城主三村元親の弟実親を養子に迎えている。
天正3年(1575年)備中兵乱により三村氏の諸城を落とした毛利氏が鬼見城を囲むとこれに抵抗したが、城主実親は城兵を救う事を条件として自刃した。 その後毛利氏は宍戸隆家を城主とし城代として佐々部美作守を置いた。その後隆家の嫡子元秀の子元継が城主となるが関ヶ原合戦後廃城となった。
鬼身城は蟻ヶ峠の南東に聳える標高284.0mの山に築かれており、現在は登山道が整備されている。
鬼身城は南北に伸びた山頂部と東側面に段曲輪を配した縄張りで扇のような形状をしている。主郭は山頂の南端で諏訪神社が祀られている。
注目するべき遺構は大手門跡と思われる東の入口となる曲輪で、十二ノ檀と呼ばれている所である。この曲輪は北からの通路を遮断する形で石塁があり、この石塁を回り込んで城内に入る構造になっている。曲輪の側面には二ヶ所の隅石垣が残る石垣となっており、戦国時代末期の改修を思わせる。
城内に続く林道によって破壊されているが、北西、北東の尾根は堀切によって遮断していたようで、竪堀の部分が残っている。北へ続く尾根にも曲輪があり、連続竪堀のように遺構も確認できる。
蟻ヶ峠は未舗装で道が狭いが、峠の北側に駐車可能なスペースがある。
最寄り駅(直線距離)