築城年代は定かではないが永禄年間(1558年〜1570年)に陶山氏の一族によって築かれたと云われる。 元弘元年(1331年)元弘の乱で西浜城主であった陶山義高が北朝方となって朝敵になったことを恥じて母方の氏である田辺を名乗り大渡城を居城としたという。八幡宮や御崎宮の棟札に田辺出雲守高倫の名が残る。
永禄年間(1558年〜1570年)には三村氏の家臣結城民部丞忠秀(備中府志)あるいは三村民部丞忠秀(備中兵乱記)が在城しており、備中兵乱で敗れて児島へ退去したという。
大渡城は高梁川と志鳥谷川に挟まれた南西へ伸びた丘陵に築かれている。
主郭は尾根の先端頂部にあり、北東背後を大堀切で断ち切り南西に向かって階段状に曲輪を配している。主郭のすぐ下に社が祀られ、その南西下の曲輪は南側の通路に面して石積されている。
背後の大堀切は雄大で、そこから北東へ伸びる尾根も自然地形が残るが曲輪となっており、その先にもう一条堀切が残る。「おかやま全県統合型gis」によれば、「本丸は9郭、出丸あり」とされており、「戦国山城を攻略する−キャッスリング入門」ではこの出丸を北東尾根の標高181m付近に推定している。実際にここを散策してみると、切岸加工された曲輪で、南北両側を削平しているが、中央部はやや高く自然地形が残っている。
登山口は南麓にあり、山腹を良く見ると民家と民家の間から細い道が山上に続いているのが見える。 地図)
最寄り駅(直線距離)